ヒマワリの命はしっかりと受け継がれようとしています。
今日、その命が中庭の花壇に植えつけられました。5/2に種蒔きされた苗です。苗の状態も良く、神のお守りさえあればスクスクと成長することでしょう。
被災地に思いを寄せながら、大きく花開くヒマワリに期待したいです。
To be continued.(加藤)
それ(神の国)は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」【ルカによる福音書13:19】
ヒマワリの命はしっかりと受け継がれようとしています。
今日、その命が中庭の花壇に植えつけられました。5/2に種蒔きされた苗です。苗の状態も良く、神のお守りさえあればスクスクと成長することでしょう。
被災地に思いを寄せながら、大きく花開くヒマワリに期待したいです。
To be continued.(加藤)
それ(神の国)は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」【ルカによる福音書13:19】
苗が整ってきました!
大きいポットが被災地からのヒマワリで、小さい方は園芸サークルが扱うミニヒマワリです。こうやって並べてみると立派に見えます。園芸サークル・マーガレットの皆さんはここでも「カワイイー」です。途中で肥料を切らしたので、双葉が黄色くなったものがありますが・・・。
植え付けの日が来るのが楽しみです。
To be continued.(加藤)
5月24日(水)の大学礼拝のご案内です。
同窓会からのプレゼント企画が礼拝後に催されます。
今年は劇団「うりんこ」観劇会です。2年前にも同じ同窓会企画でたっぷりと楽しませていただきました。
学生の皆さんに豊かな感受性と想像力を持って欲しいとの願いから企画されたものです。
さて、今年の劇では何が飛び出すか、楽しみですね。ご期待ください!
一方、説教の方ですが、よく読むと「レクリエーション」とは違いますね。意味的には、いわゆる「レクレーション」と同じでしょうか? 何だかこんがらがってきましたが、re・creation と英語で考えた方がいいのかも。何が飛び出すか、こちらも楽しみですね。
●説教題:「リクリエーション」
●説教者:大西 修チャプレン
●聖書朗読箇所:ヨハネによる福音書3章1-4節
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
●礼拝形態:合同礼拝 13:10~14:40 1年生・専攻科対象
●場所:体育館
●企画:同窓会による観劇会 ( 劇団うりんこ『ともだちや』 )
○礼拝予定
・5/31(水) 通常礼拝(チャペル) 1年生、専攻科対象
・6/7(水) 合同礼拝(体育館) 礼拝後、奨励奨学生表彰式と奉仕活動
チャペルで賛美歌を楽しく歌おうというこの企画。2013年7月29日から始まって、もうすぐまる4年を迎えます。
お昼休み中の12:45から13:00までの15分間だけですが、5曲程度は歌えますので、結構、主への尊い賛美のひと時にはなるし、キリスト教主義の名古屋柳城短大に相応しい企画かなと思って、ほぼ毎日、楽しく続けてきました。
ポスターまで掲示して学生さんに声をかけては来ましたが、ほとんど担当の私一人だけで守ってきたのが実情です。でも、ある有名な巡回伝道者の「教会を立ち上げた最初の3年間、訪れる人は誰一人いなかった」という体験談を胸に、「いつかは…」と期待をしながら続けてきました。
それが今年度に入り、あることがきっかけで、参加してくれる学生さんが出てくるようになりました。その経緯は、いずれご報告しますが、とにかく、主のお恵みを感じずにはおれない今日この頃です。本当に主に感謝です。もちろん、この企画をお認めくださったキリスト教センターや事務組織の皆さんにも心から感謝します。ありがとうございました。(加藤)
今日は大学礼拝の日ですので、賛美歌タイムはチャペルの脇でストリートライブ風にやってみました(いつもは、チャペルの受付付近で丸くなってやっています)。保育科2年の皆さんが中心になって参加してくれたおかげで、結構盛り上がりました。「賛美で盛り上がる」という表現は不謹慎かもしれませんが、分かりやすい歌詞が意外に皆の心に届いているかもしれません。
そう期待しつつ、学生さんと仲良く続けていきたいなあと思っています。もちろん、教職員の皆さんもご参加ください。お待ちしています。(加藤)
【ヨハネによる福音書14章1-6節】
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
わたしたちは「道」という言葉をよく使います。「道路」という意味で使う場合は舗装道路、悪路、でこぼこ道、平らな道、坂道、上り道、曲りくねった道などと道の状態を表す言葉として使います。また、地下鉄の御器所から柳城への道、富士山の頂上への道といったように、どこどこへの道として、目的地を示す場合にも道という言葉を使います。そのほかには、道そのものが、あるものごとの本質を表す場合にも使います。武道(柔道、剣道など)、芸道(茶道、華道、書道、歌舞伎、能楽)などのように、武術、芸術の技能、技術を体系化したもの(剣の道、茶の道など)によく使われます。極道という言葉はヤグザ社会に使われる言葉になっています(極道の妻など~ゴクツマ)が、本来は道を極めることが道理を極めること、すなわち極道ですから、これはすごいことなのです。
さて、イエス様は「わたしは道である」と言われました。道そのものがイエス様なのです。わたしたちはたとえ御器所から柳城への道を尋ねて教えてもらったとしても、初めて来る時には多分すんなりとは来られなかったのではないでしょうか。行く場所を聞いていても、その場所の近くにいたとしても分からなかったこと、迷ってしまったという経験はありませんか。そんなわたしたちにとってイエス様はわたしたちといつも一緒にいてくださるナビゲーターなのです。それが「わたしは道である」と言われた意味なのです。このイエス様という道、ナビゲーターは生きている道、わたしたちと一緒にいて、一緒に歩いていってくださる道、動く道です。現代ではエスカレーターがあり、動く道もありますが、途中までしか連れて行ってくれません。しかし、わたしたちがイエス様という生きた道を信じ、一緒に進んでいけば、その道は安心して進んでいくことができます。
皆さんは山登りやハイキングをしたことがありますか。わたしは大学時代と、牧師になってからの合わせて14年間、長野県の松本に住んでいましたので、よく山登りをしました。一人で登った時など、登山道の道標(道路標識)がとても頼りになりました。道標がはっきりしていない分岐点、壊れているところではどちらへ行けばいいか、とても不安でした。もし間違って、道に迷ったりしたなら遭難事故にならないとも限らないからです。
わたしたちはこれからの人生において生きた道を探していきたいものです。その道は真理でもあり、命でもあるとイエス様は言われました。イエス様ご自身が真理であり、命であるということは、イエス様の人格そのものが真理であること、どこかに真理があると言われたのではなく、イエス様の生きざまそのものが、真理であると言われたのです。そして「わたしは命である」とも言われたイエス様は、「イエス様こそ私の命」、「君こそわが命」として受け入れるとき、わたしたちのうちに生き、見守り、励まし、支えてくださるのです。(チャプレン大西 修 主教)
●今日は久しぶりにチャペルでの礼拝でした。
サーバー初挑戦の学生さんが緊張しながらも頑張ってくれました。また聖歌隊が聖歌練習の音頭を取ったり、2階席で礼拝中の聖歌を支えたりしてくれました。感謝です。また、礼拝直前、「お昼の賛美歌タイム」の面々が楽しそうに賛美歌を歌っていました(記事はこちら)。
【ヨハネによる福音書10章11-16節】
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
聖書には「羊」や「羊飼い」という言葉がたくさん登場します。日本では見られませんが、イエスが生きたパレスチナでは羊は遊牧されていました。今でもそうですし、私も実際に見たことがあります。主に羊毛を取るための遊牧ですが、やせている土地での大切な生活手段なのです。
羊飼いの役目は羊を草地や水源に導くことでした。羊はもともとが不器用な動物でして、集団でないと行動できないため羊飼いの強力なリードを必要とします。面白いことに、羊飼いは羊に名前をつけていて、夜になると「点呼」を取ります。そのくらいに羊飼いは一匹一匹を大切に扱ったということです。ですので、今日の聖書にあるイエスの「わたしは良い羊飼いである」という言葉を聞いた当時の人々はすぐにピンと来たことでしょう。イエスは私たち一人ひとりに心を配ってくださる方だと。私たちは集団でうまく行動できている時でも、実は一人ひとりが不安だったり孤独だったりすることもありますね。そんな羊のように不器用な人間の性格をイエスは良くご存知でした。
皆さんは柳城に入学した時には多少なりとも不安を感じたことでしょうね。今はどうですか。私は皆さん全員に「柳城に入って良かった」と心底思って欲しいです。そうなるためにも自分の中心に心棒を持ってください。大勢の中にあっても自分を見失わずに周りから認められるよう、自分自身を鍛えて欲しいのです。この礼拝でもそうです。将来、人の前でお話をするような仕事に就こうとする皆さんにとっては良い勉強になるでしょう。たとえば「自分の話を聞いて欲しい」という思いを相手にどう伝えたらいいのでしょうか。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4:9)」とたびたび語ります。イエスは無理やり人にものを押し付けようとはなさいません。それが彼流の、人を一人ひとり大切にする方法なのです。
イエスの事をもっともっと知って、自分のために役立ていって下さい。(チャプレン大西 修 主教)
ノースポールと折り紙チューリップ
保育科1年生と大西修チャプレンとが、昼食をとりながら懇談する「チャプレン・タイム」が今年度から実施されることとなりました。
わくわくドキドキのひと時です。柳城の皆さん、ご期待ください!
●時間: 昼休み(12時15分~13時00分)
●場所: チャプレン室(兼歴史資料室・同窓会室)
5/12(金) 芝田(郁)ゼミ1年(Aクラス)
5/18(木) 髙瀨ゼミ1年(Aクラス)
5/19(金) 鬢櫛ゼミ1年(Aクラス)
5/25(木) 扶瀬ゼミ1年(Aクラス)
6/1(木) 山本ゼミ1年(Bクラス)
6/2(金) 片山ゼミ1年(Aクラス)
6/8(木) 荻原ゼミ1年(Bクラス)
6/9(金) 松下ゼミ1年(Bクラス)
6/16 (金) 菊池(理)ゼミ1年(Bクラス)
6/22(木) 菊地(伸)ゼミ1年(Cクラス)
6/23(金) 野崎ゼミ1年(Bクラス)
6/29(木) 勝間田ゼミ1年(Cクラス)
7/6(木) 内山ゼミ1年(Cクラス)
7/7(金) 野田ゼミ1年(Cクラス)
7/13(木) 山脇ゼミ1年(Dクラス)
7/14 (金) 村田ゼミ1年(Dクラス)
7/20(木) 柴田(智)ゼミ1年(Dクラス)
7/27(木) 長谷中ゼミ1年(Dクラス)
5月17日(水)の大学礼拝のご案内です。
暑くなってきましたね。
まだ比較的ひんやりとしたチャペルで、心よりお待ちしています。
●説教題:「『道』を探して」
●説教者:大西 修チャプレン
●聖書朗読箇所:ヨハネによる福音書14章1-6節
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
●礼拝形態:通常礼拝
13:10~13:40 1年生・専攻科
14:00~14:40 2年生
●場所:チャペル
○礼拝予定
5/24(水) 合同礼拝(体育館) 1年生、専攻科対象 同窓会企画 劇「ともだちや」
5/31(水) 通常礼拝(チャペル) 1年生、専攻科対象
【マルコによる福音書1:40-42】
1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
本日の聖書にある「重い皮膚病」ですが、昔の聖書では「らい病」と訳されていました。「らい病」は差別的だということで、今は「ハンセン病」と呼ばれています。ただし、「重い皮膚病」イコール「ハンセン病」だとは単純には言えないようです。
さて、本学の創始者マーガレット・ヤング先生が活躍されていた時代、ハンナ・リデルという名の女性が聖公会の宣教師としてイギリスから日本に渡ってきました。彼女は東京で1年間勉強した後、今の熊本大学で英語の教師になりました。ある日、桜咲く本妙寺の参道を歩いていると、大勢のハンセン病患者が物乞いをしながら座っているのを目にしました。当時の日本にはハンセン病患者が3万人以上いたと言われていますので、リデルが見た光景は、イエスの時代のそれと似ていて、誰もが身を引いてしまい、よけて通りたくなるような、そんな状況だったと思います。ハンセン病は本来、感染力が大変弱い病気なので触っただけでうつるということはなかったのですが、2,000年も前の当時としてはたいへん恐れられていて、患者に触ることは身が汚れることだとも言われていたのです。でもイエスは違っていました。彼は「治してください」と寄りすがる患者を深く憐れました。ここで使われている「憐れむ」という言葉は「はらわたが引き裂かれる」という意味を含むギリシア語ですので、「イエスは心の底から助けたい気持ちになった」と解釈することができます。そして、その通りに、イエスは患者に手を差し伸べて体に触れたのです。「抱きしめた」と訳している聖書もあるくらいです。
さて、リデルはこのイエスに倣い、ハンセン病患者を救うために宣教師の仕事を辞めて病院を作ることを決意します。約5年後に回春病院という形で彼女の希望はかない、以降、約40年に渡りハンセン病患者を救う活動にリデルは身を捧げたのです。
こんな話をすると、皆さんは「すごいなあ」と思うかもしれませんが、それだけでなしに、私にも何かできないかなあと思うことが大切ではないでしょうか。
現在、日本には13の国立のハンセン病療養所があり、そこで約2,000人の方が生活をされています。実際に患者である方はほとんどいませんが、高齢化が進んでいますし、今なお差別に苦しんでいる人もいます。幸せを望み、そして天国に行きたいと願っている方ばかりです。ぜひ、心に留めておいてください。(チャプレン大西 修 主教)
2年目を迎えたペチュニア(満開に、感謝!)