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【ルカによる福音書 3:21-22】
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

今日は、先ず、洗礼についてお話しします。洗礼とはキリスト教の信者になるための儀式ですが、聖書には、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと記されています。水の中にいったん沈んで、そこから出てくる。今の教会でも、このような洗礼の方式を守っているところがあります。水に入ることで、今までの生き方に別れを告げることを宣言し、そして、水から出ることで、キリスト教の教えに従った新しい人生を歩むという決意を示すのです。白装束で洗礼を受けることが多いのも、そういった意識の表れです。

一方、洗礼式の際には、よく、ノアの洪水やモーセが海を渡る場面を記した聖書箇所が読まれます。不信仰な者たちは洪水に流され、キリスト教に敵対するものは海水に飲み込まれる。つまり、これらはキリスト教に従う者だけが生き残ることを象徴していて、洗礼の意味を語るには都合がいいわけです。

さて、今までの生き方に別れを告げると言いましたが、そのためには自分自身の個性を知る必要があります。個性といっても、たいていは他人と自分を比べることで分かることが多く、従って相対的なものになりがちです。たとえば動作が遅いという性格は、見方によっては、セッカチでなくてユッタリしているというプラスの面で評価されることもあるわけで、何が良いか悪いかは一概には決められません。しかし、一般的には人は自分を悪く思いがちです。

私も自分自身を振り返ってみて、10代20代の頃に比べてずいぶん変わったなと思います。皆さんも社会に出る前に自身を振り返り、できるだけ自分を高めておいて欲しいと思います。(チャプレン)

ポーチュラカ

 

【コリントの信徒への手紙一 12:20-27】
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


AHI(アジア保健研修所)
と本学キリスト教センターとの共同企画という形で、合同礼拝&AHI巡回報告会が開催されました。本学では、昨年に引き続き2回目の報告会(1回目はこちら)となりますが、今回は、フィリピンでは少数派であるムスリム(イスラム教徒)の女性であるエメリン・バヒン・ジャラル(以下エミー)さんをお招きし、合同礼拝では、AHIの中島隆宏さんにメッセージを、続く報告会では、エミーさんに「最果ての島で健康を守る―フィリピン・スールー諸島での取り組み」と題するお話をしていただきました。

中島さんは、いわばエミーさんの報告の導入役と自らを位置づけながら、彼女が、フィリピンの中でも政情が安定せず、住民の生活や健康が脅かされる少数派のイスラム教徒の住んでいる地区で、病院院長兼保健局長という立場から、住民の健康を守るために取り組んでいることを紹介するとともに、AHIが、エミーさんの活動を支援することの意味を、「もっとも大切と思われていない兄弟の友人、隣人となること」「アジアと日本、また、ムスリムとクリスチャンとの和解・対話」のうちに求め、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(一コリ12.26)という聖書の言葉にあるように、誰かを犠牲にした平和ではなく、いっしょに喜べる平和を、健康づくりを通して行いたいと話されました。

エミーさん(中島さんが通訳を務める)は、フィリピンの最南端にあるスールー諸島の離島であるパゴタランで病院長兼保健局長を務める中で、とくに、力を入れて取り組んでこられたことを、スライドを使ってわかりやすく説明してくださいました。たとえば、妊娠のことも、母親だけでなく父親にも理解を求めて家族の問題として捉えてもらうこと、保健に関わる諸問題も、ひとつの家族だけでなく地域全体のものとするために、その地域の長やキャプテンに働きかけること、また、次世代を担う子どもたちに早期から保健に関わる知識を伝えていくこと、さらに、ラジオや劇を通してそれを浸透させていくこと等々、その活動は実に広範にわたるものでした。社会を変えるためには、一人ひとりが変わっていくことが大切だからです。このような弛まない活動を続けてこられたのは、貧しい人びとの喜びにまさるものはないから、とも語るエミーさん、キリスト教の礼拝を守るわたしたちには、ひとに仕え、神に仕えることを神様は喜んでくださる、とあたたかく語ってくださいました。(菊地)

 

【ルカによる福音書 14:12-14】
また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

今日は人の平等について考えます。

先ほど読まれた聖書には「宴会をする時は、親しい者ではなく、むしろ不自由な人を呼びなさい」と記されています。普通では考えられない教えです。もちろん当時にあっては、障がいを持った人々は「招かれざる客」であったわけですから、余計に現実離れしています。

現代にあっては、先日のリオのパラリンピックで見られたように、障がいを持った人々が差別されるような時代ではありません。公平さを保つために、障がいの程度の応じて同じ競技種目が複数に分類されているくらいです。「どこかに障がいがあるから全部だめ」ではなく、「機能している他の面を最大限に活かす」という発想です。パラリンピックは、差別観がなくなったことを実証しているのです。

一方、健常者の間でも平等の意識が高まりつつあります。たとえば、年齢別スポーツ大会。100メートル走の世界記録保持者は90歳を超えた日本人だそうです。

スポーツを通して自分の能力を発揮できる人の話が続きましたが、では、スポーツのできない人はダメなのか。日常生活すら自分で営めない方々はどうなのか。どこまで人は平等と言えるのか。もっともっと考えるべき問題です。

たとえば、いくら健常者でも、その一生の中で人の世話にならないと生きていけない時期が必ずあります。赤ん坊の時期と介護を必要とする時期です。赤ん坊は泣くこと以外で文句を言わないですが、高齢者は好き嫌いが激しくて扱いが難しくなります。高齢者介護の職場では、もちろん使命感が必要でしょうが、あまりに高すぎると、長続きしません。

人の世話になるのが嫌で自殺する人もいるそうですが、人が人の世話になることは当たり前のことと自覚したいものです。その感覚が平等の精神を育むのです。(チャプレン)


ニチニチソウ

 

【マタイによる福音書 9:9-13】
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

【本日のお話は、日本聖公会大阪教区のサムエル大西 修 主教にお願いしました。】

皆さん、はじめまして。本日は、この教会の名前に使われている福音記者「マタイ」を記念する日で、何と、私の72歳の誕生日でもあります。私にはすでに孫が7人もいるのですが、その中の一番の年長者がちょうど皆さんと同じくらいの年齢ですので、その孫に話すつもりで進めたいと思っています。

子どもの頃から柳城とは深い縁があることもあって、私はこの柳城が大好きです。私自身は聖公会の幼稚園での卒園生ですし、今の役目が与えられる前は、この教会の司祭をしていましたので、柳城短大のことは良く知っています。私の兄弟姉妹の中にも柳城の卒園生や卒業生がいますし、昔は、父親が柳城のチャプレン、祖父が柳城の理事長をしていました。妻は柳城を卒業して幼稚園で勤めましたし、初恋の人も柳城の実習生で名前は今でも覚えています。

その当時の柳城の学生総数は2、30名程度で、ほとんどが寮生活をしていましたので、全員が仲良しで、教員も生活面での面倒見がよかったです。ホーキンス先生、坂東先生、近藤先生、林先生、高橋先生など、本当に懐かしいし、楽しい思い出が一杯あります。当時の先生方は、本当に学生のために骨身を惜しまずに働いておられましたが、実は、私にとっては怖い方々でもありました。学生にも厳しい存在でしたが、それは愛を伴った厳しさでして、保育の勉学を根底で支える人間性の成長にとって必要だったのです。

渡辺和子さんをご存じでしょうか。彼女は修道女で、ノートルダム清心女子大学の学長もなさった方ですが、私はその著書が好きで、よく読んでいます。修道女になるための修業をアメリカでしていた当時、彼女は、テーブルに食器を並べている時に、人から「あなたはどんな気持ちでこの仕事をしているの?」と聞かれたそうです。そして、「この席に座る人の幸せを願いながら仕事をすれば、こんな小さなことにも意味が出てくる」ことを学んだそうです。日々の生活の中で「こんなことして何になる」と思うこともありますが、それでも前向きに、一つ一つの行動を大切にしたいものです。たとえば、通学できること、礼拝に出席できること、友人に会えることといった日常のありふれた場面で、はたして感謝の気持ちを持てているでしょうか。また、実習やボランティア活動などで、人の役に立とうとする際に「何々してあげた」という上から目線ではなくて「何々させてもらえた」という謙遜な気持ちが持てるでしょうか。心の動きは相手にすぐに伝わるものです。だから、仮に相手があなたの行動で不機嫌になった時は、自分の方に原因があると考えてみることです。喜びをもって何かするか、それとも単位欲しさにするかの違いは大きいです。

本日の聖書個所に登場するマタイという人物は、イエス様の弟子となって聖書を書き残すまでに成長するのですが、それ以前は、徴税人として、当時のユダヤ社会にあっては最も忌み嫌われる仕事に就いていました。本来は、当時のユダヤ社会を支配していたローマ人が税金を集めるべきところを、その代役を担っていたからです。そういう彼にイエス様は声をかけるのです。「わたしに従いなさい」と。イエス様はこの場面以外でも、人々から軽蔑され、差別されていた人に歩み寄ったことが聖書には記録されています。イエス様は神の子として、神の愛をすべての人々に示す使命を与えられていたのです。

この神の愛が柳城に今なお流れ続けています。短大の校歌では「幼き者は、神の愛子(まなご)」と、附属園の園歌では「イエス様の愛に育った私達」と歌われている通りです。この愛が実を結び、周りの人々を愛せるようになるのです。

愛に育まれた柳城の在学生だとの自覚のもと、自信を持って歩んでいただきたい。そして、柳城を支えてくださった人々への感謝を忘れないでください。

皆さんのご健闘をお祈りします。(要約:加藤)

 

【ヨハネの手紙一 3:18】
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

【本日の礼拝では、リチャード・アレン・メリット第4代学長の逝去10年を記念して、柳城学院の監事である日野忠市さんにお話をして頂きました。】

私は、当時、メリット学長が司祭を務められていた愛知聖ルカ教会に籍を置いていた関係もあって、先生とはたいへん懇意にさせてもらっていました。

メリット先生は1915年アメリカ生まれ。4人兄弟の末っ子でした。2006年に91歳で群馬県にて逝去されましたが、その一生を一言で表現するなら「By Love Serve (愛をもって仕えなさい)を実際に示した方」と言えます。本日の聖書個所そのままですね。彼があるオラトリオでイエス役を演じられた時のことです。そのイエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)」と叫ぶ場面で、私は「イエスは、きっとこんな感じで叫ばれたのだな」と感じながら、メリット先生が歌われる姿に見入ったものです。

彼は一生独身を通し、神にお仕えになったのだと思いますが、決して「真面目一筋」な人物ではなくて、実にユーモアセンスにあふれるユニークな方でもありました。人にプレゼントすることが大好きで、ある時、クリスマス協奏曲などが入ったCDを私にくれたのですが、それが実は、2年前に私が彼にあげたものだったのです。返答に困った私は仕方なしに「これが欲しかったんですよ!」と彼に礼を言うと、彼は「そうだろ!」と嬉しそうにしていました。また、自炊生活の中で、野菜や果物の残り物を集めては、チャツネと言うかジャムと言うか、調味料を混ぜ合わせて作っていました。それをまた嬉しそうに人にあげるのですが、私がもらった時には、とても発酵し過ぎて食べられたものではありませんでした。健康志向の彼は胚芽入りのパンにこだわっていたのですが、なぜか、鰻丼とひつまぶしだけには目がなくて、これだけは人にプレゼントしたくなかったようです。私と一緒に食べた時に「絶対に人にあげなーい」とか言って食べていました。

そんな愉快なメリット先生ですが、日本のキリスト教主義教育の発展に多大な影響を与えた方でもありました。1962年には、立教大学の「キリスト教教育研究所(JICE)」の発足に尽力し、73年には、南山短期大学の人間関係科初代学科長に就任されています。

司祭でもあったメリット先生にとって、教育はイエスの「愛」を人々に伝える手段であったのかもしれません。「愛」について、彼は次のように表現しています。「イエスの見方をもって人を愛すること」、「その人の幸せを祈ること」、「愛をもって人に仕えること」、「イエスとは、言い換えると、愛」、「人の助けになるものは色々あるが、最後の決め手になるのが愛」。メリット先生はこのような愛を自ら実践し、そして、人に語り続けた人でした。

名古屋柳城短期大学の長い歴史の中で、このようなすばらしい方が活躍されていたことを、どうか覚えておいてください。(要約:加藤)

 

★次週9/21の礼拝案内

サムエル大西修 主教(日本聖公会大阪教区)による講話を予定しています。
大西主教は、大阪教区に移籍される前は、名古屋聖マタイ教会の司祭をなさっておられた方なので、本学のことはたいへんよくご存じです。
題は「今、柳城生に伝えたいこと」です。
ご期待ください。

 

 

 

 

 

 

大西主教(主教按手式当日)

 

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-14】
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

夏休みが終わりました。何か新しい経験ができたでしょうか。今日は「視点を変える」というお話をします。

・皆さんの中には、夏休み、アルバイトに精を出した人もいると思いますが、私も大学時代の夏休みをアルバイトで過ごしました。その中で、後楽園の各施設にコーラの補充をする仕事があったのですが、施設を裏から入ることで、普段目にできないものに触れられて視点を変えることができました。

・夏休み中、オリンピック中継が続きましたが、中継されない競技があることに目を向けるのも必要です。ちなみに、昔は綱引きも競技に加えられていました。

・報道によると、文部科学省が日本式教育の輸出を計画しているとの事です。本学院でも、「愛をもって互いに仕えなさい」というキリスト教精神に基づいた教育がカナダから輸入されて今日に至っています。子どもの人権に関心が薄い時代の頃の話です。子どもを人として尊ぶことは今や常識ですが、昔にはそんな発想はなくて、一人前の労働者に仕上げることこそが教育の目的でした。そういえば、本学の卒業生でアフリカの幼稚園で働いた方がいました。教育の目的を新しい視点でしっかりと見据えてみましょう。

・後期が始まりました。新しい視点を取り入れながら勉学に励んでください。(チャプレン)

ペチュニア

 

【コリントの信徒への手紙  一 12:4-7】
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

今日の聖書にある「賜物」とは、原文のギリシャ語の「タラントン」を翻訳したものです。今日の英語では「タレント」、すなわち、普通「才能」と訳される言葉です。神から人間一人ひとりに才能が与えられていると聖書は語っています。

ところが、たいてい私たちはマイナス思考が強くて、自分の才能の無さを嘆くことが多いものです。人と較べて「もっと、あのようになりたい」と思う。学校では成績に振り回されるので、もっと深刻です。大学でも同じでしょうが、それでも資格を取る場合には点数など関係ありません。合格か不合格かで決まるだけで、点数よりも、現場で役に立つかどうかの評価の方がはるかに大切になってきます。運転免許がいい例で、学科試験の点数が悪くても運転技術は抜群という場合もあり得ます。

ですから、自分の才能についてあれこれ考える際には、「できない」ことよりも「できる」ことの方に注目すべきです。もうすぐ始まる夏休み。普段できないことに挑戦して、自分の隠れた才能を見出す機会にしてはどうでしょうか。

私の友人で寿司職人がいますが、彼は、高校3年生の時、勉強に向いてない自分に気付いて寿司屋の道に進みました。回りのほとんどが進学する中でのことです。結局、彼の店は大成功して、50年経った今でも定期的にその寿司屋さんで同窓会を開いています。また、理工系大学1年時にスパゲティ屋さんの道に進路変更した友人もいます。自分が何に向いているのかを見つけるのも「才能」かもしれません。

皆さんのほとんどは保育士と幼稚園教諭の資格を取得しますが、この方面の仕事では、人と人とが向き合うという意識を持つことが大切になります。ですので、物事をテキパキこなすという才能よりかは、ユックリと人に向き合う姿勢の方が役に立つことでしょう。今の自分自身をプラス思考で振り返って、自分に何ができるかを考えるようにしたいものです。(チャプレン)

アガパンサス

 


【ローマの信徒への手紙12:15】

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

【本日のお話は、この4月に本学に赴任された介護福祉専攻科の芝田郁子先生にお願いしました。先生の前任校である福島学院大学は、2011年3月11日に起きた東日本大震災で非常に大きな被害を受けたところで、彼女もそこでの勤務中に被災をされました。その時のご体験を、スライドを使いながら語っていただきました。以下は、そのダイジェストです。】

本日のご依頼を受けた時に、私は、正直言って、自分が語るにふさわしいかどうかを自問しました。私よりももっと辛い経験をされた方が大勢いらっしゃるからです。それでも、福島に向けて祈りをささげてくださる方が名古屋にいることを知った時に涙したこともあり、私自身が名古屋の出身であることから、ご依頼を受けることにしました。

震災当時の様子をつづった「東日本大震災メモワール 福島学院大学2011年3月11日14時46分の記憶」という冊子に、私の体験が掲載されていますが、そこには、こう記されています。

『(要約)私の人生において忘れることができない一日となった。その日、大学の修了関係の行事の打合せを終え、卒業式に思いを馳せていた。終了後、すぐ研究室に戻る気がせず、実習指導室に立ち寄り先生方と話をし、研究室に戻った。研究室で文書作成中に揺れが始まった。廊下に出るが立っていられない。しゃがみ込んだまま「揺れはすぐに収まるはず」と心の中で繰り返す。揺れが長く続いた後、グランドへ出るが、避難してくる人が皆おびえている。目の前で本館が倒壊する様子は、まるで映画を見るかのようだった。そのうちに雨が降り出し、それが雪に変わった。体育館へ避難するが、家族に電話しようとしても繋がらない。災害情報も気になる。その後、通常20分の道のりを2時間かけて自宅に車で戻った。家の中はひどい状態で、結局、ゴールデンウィークまで片付ける気力が湧かなかった。時が過ぎた8月の「感謝の会兼学院復興記念祭」で学長が言った「そろそろ私たちも季節を感じてもいいのでは」という言葉に、日常に戻って、季節を味わう余裕を持つようになっていいんだと思った。』

さて、この地震で、私は人の運命について考えさせられました。というのも、私たちが当日、打合せのために利用した講堂の天井は落ちたのですが、その会議はたまたま開始時間が繰り上がったため、私は地震が起こる前にその講堂から去ることができたからです。時間通りに会議が始まっていたら、私は天井落下の被害に巻き込まれていたでしょう。

地震の直後でも大学に出勤できたことは、私にとって救いでした。「皆に会って、話ができる。ご飯を一緒に食べる」ことが心の支えとなりました。大学にあった食物栄養科の先生方が作ってくださったカレーライスを皆で食べたのも、今となっては良い思い出です。皆で寄り添って生きることの大切さを強く感じます。(芝田)

地震で大きな被害を受けた福島学院大学(本館)

 

【マタイによる福音書 6:22-23】
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

本日の聖書個所は「目と心はつながっている」ことを伝えようとしています。例として、子どもの目は輝き、そして澄んでいますね。輝くのは物事に関心があるため、澄んでいるのは心が素直な証拠です。また、こんな例もあります。皆さんが、たとえば、新しい服を買う予定である時、道ですれ違う同年代の服装に目がついつい行くことでしょう。でも、靴が欲しいと思っている人にとっては、服よりも靴を注目するはずです。つまり、心に関心がある事柄しか、人はしっかり見ようとしないということです。だから、髪を切ったのに彼氏から何の言葉ももらえなかった時など「付き合うのを止めようかな」などと思ったりもしますよね。多分、視界には入っていても、関心がないので見過ごしてしまうのでしょう。

就職して社会に出ると見る目が随分と変わるものです。私は新卒の時、ある出版社の編集部に就職しましたが、その時に編集長から「自分一人だけで面白いと思ってもダメだから、多方面のことに関心を持つようにしなさい」と言われました。それで、女性雑誌を読んだり、女性服の売り場を歩いたりもしました。人にプレゼントする機会を増やして相手の関心事を探る訓練もしました。このようにして私は視野を広げようとしたのです。

就職して幼児教育に携わろうとする多くの皆さんは、子どもの目線でものを考えることが求められます。子どもはあらゆることに関心を示します。ですので、皆さんも、もうすぐやって来る夏休みを、色々なことに関心を持つ機会にしてはどうでしょうか。それは、結局、人生を楽しむことにもつながるのですから。(チャプレン)

クチナシ

今年度初の聖歌隊ブログです。

私達聖歌隊は、毎週月曜日の昼休みに、チャペル1階の「マタイホール」という部屋で練習をしています。メンバーは1年生3名、専攻科1名の計4名です。少ない人数ですが、和気あいあいとした雰囲気が自慢です。

去る6月22日(水)の礼拝では、早速練習の成果をということで、聖歌482番「いつくしみ深き」のアルトパートを歌いました。他の学生や教職員がソプラノを歌う中で、聖歌隊のアルトが重なって厚みのある音になりました。終了後、メンバーが録音していた演奏を皆で聴いて、「うわー!」という声が上がりました。「音が外れているところがあるね。」「もっと練習しよう。」という反省も聞かれました。

この写真は、昼休みの練習風景です。これからも地道に練習を続けていきたいと思います。(柴田)

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
(マタイによる福音書18:20)

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