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第62回卒業証書授与式と第18回修了証書授与式の模様をお届けします。

式の流れについては従来と同じですので、2013年度と2014年度の記事をご参照ください。ここでは、本学の特色についてお伝えします。

 

 

 

 

 

 

卒業式の会場は本学の体育館です。ステージに大きな十字架が掲げられていて、体育館が礼拝堂としての機能も持っていることを示しています。実際、卒業式は礼拝形式で執り行われ、司式者団(チャプレン・学長・理事長)以外の参列者の座席は、フロア側に十字架を仰ぐ位置で設けられて、十字架の下で皆が一つになれるという信仰的な意味が表現されるのです。

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。【ガラテヤの信徒への手紙3:28】

 

 

 

 

 

 

祈りや聖歌は全てスクリーンに投影されます。印刷物を目で追う煩わしさから開放されるので、式に集中できますし、あごが上がり気味になるので声量が自然と大きくなります。これも、会衆が一つになるための大切なツールと言えましょう。

 

 

 

 

 

 

式中、「平和の挨拶」が取り交わされます。これは日本聖公会(本学キリスト教の母体)の祈祷書に倣ったもので、「主の平和」と唱えながら隣同士で握手を交わします。会場がたいへん和やかな雰囲気になって、礼拝を捧げる喜びが共に実感できる瞬間です。

 

 

 

 

 

 

卒業生だけが聖歌を歌う場面があるので、それに応える意味で、教職員だけで聖歌を歌う時間が設けられました。互いに聖歌を捧げあうことで、本学がキリスト教の精神に立脚していることを証しするのです。涙ぐむ卒業生もいるようですよ。ちなみに、卒業生による聖歌は聖公会聖歌417番「あなたの平和の器に」で、教職員による聖歌は476番「暗闇行くときには」です。(加藤)

本日3/17(木)、保育科195名 保育専攻科4名 介護福祉専攻科14名の皆さんが柳城を巣立っていきました。本学院の創設者マーガレット・ヤングが保母養成所に最初の生徒を招いてから実に117年が経ちます。歴史の重みを背負いつつ、社会に貢献できる「人財」として活躍できるよう、主のお導きがありますように。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」【マタイによる福音書28:20】

以下、式典の中で卒業生に語られたメッセージを簡単にご紹介します。


 

 

 

 

 

式辞
「手の平に人という字を書いてみてください。」 新海学長は、任期中に送り出す最後の卒業生に向かってこう語りました。「皆さんは、先生方、クラスメート、実習先の子どもたちや障がいを持った方々など、様々な人々との出会いに恵まれましたね。その中で互いに支え合い、学び合い、育ち合いました。そして、愛を説く聖書にも出会いました。礼拝を通して皆さんには愛の種が蒔かれています。『愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。』と聖書が語る通りですから、どうか人との関係を大切にして、愛の実践者として社会で活躍して下さい。」

 

 

 

 

 

 

祝辞
渋澤理事長からは建学の精神についてです。「愛をもって仕えなさい」 に関して言うと、仕えられる側の生き方はきっと楽しいですが、仕える側の生き方には厳しさが要求されるでしょう。それは、人々に仕えるために十字架上で命を捧げたイエス・キリストの生き方そのものだからです。でも、厳しいからこそ、人としての成長が期待できるのです。どうか折りに触れ、この建学の精神を思い出して、いつも柳城とつながっていて下さい。神の導きとお守りが、皆さんにありますように。」

 

 

 

 

 

 

挨拶
後援会会長の中川さんよりメッセージを頂きました。「保育現場は甘くないです。大切な命を預かる場所ですから、厳しい先輩もいます。でもそれが実はありがたい事だと実感することになるでしょう。最初はどうしようかと迷いますが、迷ってばかりいないで、柳城で身につけたことを行動で示して下さい。」 中川さんは卒業生に向かって「勤務一日目だと思って、おはようございますと今から挨拶してみましょう」と催促したので、会場は大いに盛り上がりました。「保護者は、先生に挨拶されてホッとするものです。」 記憶に残る熱いメッセージでした。

 

 

 

 

 

 

挨拶
一方、鎮旗同窓会会長さんからは「心の美しさ」についてです。「仕事柄、色々な人のしぐさを観察することが多いですが、美しい身なりの方が心無い行動をする場面を目にすることもあります。卒業生の皆さんの多くは、これから社会に出て、子どもたちの鏡になろうとしています。自分の心を正しく美しいものにして下さい。人が人を世話するところには、必ず心が通い合うからです。今の皆さんの美しい姿に見合った心を育てて下さい。ご活躍を期待します。何か困ったことがあれば同窓会を頼って下さい。」

(加藤)

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 【コヘレトの言葉3:1-11】

本日は教会暦において「受苦日」に当たります。イエス・キリストが十字架刑に処せられた日を覚えるためのもので、キリスト教の信徒らは、こういった暦をきっかけにして信仰的に強められていくのです。

さて、皆さんにとって、本日は短大2年目がスタートする日です。既に就職に向けて色々と考えていることでしょうが、この1年の勉学が将来の就職につながるわけですので、気持ちを新たにして、地道に努力を重ねて欲しいものです。

とはいえ、なかなか思うように上達しない時期もあるでしょう。そんな時はひたすら我慢して、練習を怠らず、本日の聖書にもあるように、神様の計り知れないご計画を待つことが大切です。あのイチロー選手は繰り返すことが全く苦にならないそうです。好きな映画や音楽は何度も視聴し、ランチでは、奥様の手作りカレーを毎日食べても平気。きっと本業のトレーニングの方も何度も繰り返していることでしょう。

とにかく、諦めないこと。困難は時が解決してくれます。希望に向かっての努力の積み重ねだけが、皆さんを卒業へと導くのです。

昨日、名古屋市南区にある名古屋キリスト教社会館という社会福祉施設を訪問しました。ここでは「命の響き合い」、つまり「人が出会い、ふれ合い、そして育ち合う」ことを大切にしているそうです。このようなすばらしい施設に就職するチャンスが皆さんもありますが、そのためには、それなりの準備が必要になります。この1年、どうか頑張ってください。(チャプレン)

パンジー

 

 

 

 

 

 

 

名古屋柳城短期大学では、大学礼拝の出席率の高い学生さんに、ささやかなプレゼントが渡されています。
(出欠の取り方についてはこちらで)

2015年度はトートバッグでした。クリスチャンの世俗的なシンボルとしての「魚」と、聖書の言葉(イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)」がデザインされています。

イクトゥスΙΧΘΥΣは、ギリシャ語で「魚」という意味ですが、同時にΙΗΣΟΥΣ  ΧΡΙΣΤΟΣ  ΘΕΟΥ  ΥΙΟΣ  ΣΩΤΗΡ(ギリシャ語でイエス・キリスト・神の・子・救世主)の頭文字を並べたものと同じであるため、キリスト教が、その初期において迫害にあっていた時代、魚の絵がクリスチャンの隠れシンボルとして使われたといいます。この絵にイクトゥスの文字が重ねられたのがこのトートの図柄です。こんな魚のワッペンを貼った自動車なんかを見かけたことはありませんか?

ちなみに2014年度は「ミニしおり」でした。「主を讃えよ」と刻まれています。(加藤)

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」 【ガラテヤの信徒への手紙3:28】

今年度をもって退任される新海学長に、「女性がいっそう輝いて生きる ―憲法がその原動力―」と題してお話をいただきました。

社会教育学の中でも、戦前から戦後にかけての教育行政にご造詣が深い先生は、法的根拠を明確にしながら、一方で、聖書が語る精神性をも加味して、女性の地位向上への期待を私たちに熱く語られました。

「女性が『人』として認められていなかった」戦前における平塚らいてう市川房枝、そして戦後のGHQ憲法草案作成チームのベアテ・シロタ・ゴードンの功績が最初に讃えられましたが、すぐさま、日本の現状について、鋭い警鐘が鳴らされます。「男女平等の法的整備はできたが、中身はこれから…。」 そして未だに「男は仕事、女は家事」という考え方から脱却できない日本は、2016年3月7日に国連の女性差別撤廃条約委員会からいくつかの勧告を受けるに至るのです。

本学の多くの女子学生さんは卒業後に保育現場へと巣立っていきます。先生のお話は、もちろん、その彼女らへのエールであったはずです。イエス・キリストの前にあっては、人は皆平等。この高い精神性のもと、卒業生の皆さんには、自身のことと共に、弱者である子どもたちや要介護者らの人権を守る側にも立って欲しいと思いました。「愛をもって仕えなさい」という本学の教えに従って。(加藤)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学礼拝での出欠の取り方をご紹介しましょう。

まず、写真のような出席カードを手作りし、ブックポケットを介して聖書に挟み込みます。これにより、「聖書を持って礼拝に臨む」という習慣が身に着くというわけです。ちなみに、聖書(新共同訳)は入学記念品として学生さん全員に配られています。

そして、出席するたびにスタンプが押されます。どこか、教会の日曜学校に似ていますね。スタンプは「信仰」、「希望」、「愛」、「十字架のマーク」の4種類です。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(1コリント13:13)。」

スタンプがたまると、何となく嬉しいものです。(加藤)

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-14】 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

33年間、名古屋柳城短期大学にお世話になりました。今ここに立ち、これまでの思いが胸に迫ります。最後までしっかりとお話ができるように、どうかお祈りください。

90歳を超えた私の母が、一昨年の年末に骨折をした後、歩行ができなくなり、それ以来1年余り、私は母の介護に多くの時間を費やすことになりました。皆さんからは「たいへんでしょ?」とよく声を掛けられます。大変と言えば大変ですが、実は、毎日、楽しく母と過ごしているのです。それ以前と言えば、母と私との関係は淡々としたものでしたので、これは大きな変化でした。母と向き合うことで、これまで分からなかった母の一面(明るさやユーモアセンス)や、まだ聞いていなかった体験などを知る喜びがあります。

子育ての経験のない私にとって、今の母はまさに「大きな子ども」です。「ありがとう」とか「よく出来たね」、「気持ちがいい」といった素直な言葉が頻繁に交わされます。「あなたは賢いわね」…。今まで一度も言われたこともない言葉を母からもらいました。私の方が母に支えられているようです。

母は働く女性でした。20代で戦時を体験し、戦後すぐに結婚して私を含めた3人の子どもをもうけましたが、私が10歳の時に父が亡くなり、弟は5歳でしたので、相当に苦労して私たちを育ててくれたのだと思います。でも、そんな素振りは見せなかったように思います。今は母への恩返しの時期だと思っています。

17年前に出版された、レオ・バスカーリア作の『葉っぱのフレディー』を皆さんもよくご存じかと思います。死ぬのを怖がっていたフレディーが、親友のダニエルに教えらながら、「死とは変化の一つに過ぎない」ことや「いのちは永遠である」ことを理解していく物語でしたね。私は母の介護を通して、「いのちは確かに続くもの、神の御手の中にあるものである」ことを実感しています。母には人生の最終章を満ち足りたものにして欲しいと思っています。

最後に、絵本作家のレギーネ・シントラーの言葉をもって、お話を終わりたいと思います。

「人生は死によって限界づけられているにもかかわらず、それ故に楽しいものであり、充実して価値があり、最後まで生きるに値するのです。死は、生の暗い部分を強調することによって軽くなるのではありません。死を軽くするのは、十分に生きたという感情であり、この世のあらゆる美しさを知り尽くしたという感情なのです。」

長い間、ありがとうございました。(尾上)

(尾上明子特任教授が今年度もって本学を退職されます。本日の礼拝では、先生に教話をお願いしましたので、ここに、その概要をお知らせしました。)

【ヨハネによる福音書14:27】
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

明けましておめでとうございます。

大晦日から除夜の鐘を聞き、年明けには初詣に行く多くの日本人は、おもしろいことに、この時期、仏教と神道の風習を分け隔てなく守っていることになります。教会では1月1日を「主イエス命名の日」と定めて、イエスが生まれてから8日目に名前が与えられたことを記念します。一方、本日1月6日は「顕現日(けんげんび)」と呼ばれていて、キリストの降誕劇に登場した、あの東方の三博士がイエスを拝みに来たできごとを記念します。この三博士、一説ではアジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人の三人を表すそうで、これによって、ユダヤ人以外の人々にもキリストとしてのイエスが現れた、つまり、すべての人々に救いがもたらされたことを象徴しようというわけです。

さて、イエスは、その教えの中で、世界が平和であるよう、隣人と共に生きることを私たちに強く求めました。

今の世の中を見渡すと、平和とは程多い現実が広がっています。それから逃れようとする大勢の避難民がヨーロッパに救いを求めているニュースが昨年から報じられていますが、もともとヨーロッパの国々では外国人が人口比で5から6パーセントを占めているそうです。日本はどうかというと、現在200万人程度だそうで、人口比でいうと2パーセントくらいです。数字の大きさに関わらず、外国人を受け入れている地域では、どのようにしたら互いに隣人として共に暮らせられるかという課題が生じます。その成功事例が、あるテレビで報道されていましたが、ゴミの分別とかの生活習慣を外国人へいかに伝えるか、色々と工夫しているようです。

私も以前、幼稚園に勤務していた時に、外国人の子どもを受け入れたことがあります。日本語を話せない子どもだったのですが、幼稚園では体を動かしながら学ぶことが多いので、教えるのに困るようなことは少なかったです。これが、小学校になると、座学が増える関係で、日本語の話せない子どもには色々と困難が伴うようです。柳城短大の皆さんも、将来、保育現場で外国人の子どもに接することがあるかもしれません。

これらの話から、隣人と共に平和に暮らす意味を心に留めていただきたいと思っています。

シュロチク

 

キリストの降誕劇を「ページェント」と呼んでいます。今年も授業科目「キリスト教保育」受講学生22名と、聖歌隊(聖歌隊サークルと有志の皆さんによる)18名、合計40名によるページェントが行われました。なぜキリスト教がクリスマスを祝うのか、その意義を学ぶために、本学で恒例となっています。

これらの本格的な練習が始まったのは、12月初旬だったため、学生たちは本番までのわずか2週間で形にしなくてはなりませんでした。当初は、台本を片手に学生たちは台詞を読むのに精一杯でした。役作りや動きもぎこちなく、科目担当者の私は「これで大丈夫かな?」という不安もぬぐえませんでした。しかし、本番3~4日前のラストスパートで、学生たちはみるみると上達し、劇、聖歌隊ともに目を見張るほどの成長を遂げていきました。これは昼休みや放課後も、遅くまで練習を重ねてきた成果だったと思います。

学内では、様々な行事において「柳城生は本番に強い」と語られています。今年の学生たちは本番だけでなく、練習の過程においても真摯に取り組んでいた皆さんを誇りに思い、心より感謝しています。(智世)

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネによる福音書15:7)

 

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