【マタイによる福音書 11章2~6節】
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
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物語は、牢獄の中にいる洗礼者ヨハネという人についてです。イエスに洗礼を授けた人です。
ヨハネが生きていた当時のユダヤ地方は、ローマ帝国という大国によって支配されていました。重い税金が課せられ、ローマの軍隊が駐留し、逆らうことなどできませんでした。ローマ皇帝を神の子として拝みなさいと、礼拝も強制されていました。さらに、そのローマに忠誠を誓うヘロデというユダヤ地方の王は、ローマの操り人形のようになっていました。人々の心は荒み、希望は失われていました。これが、その頃のユダヤ社会の状況です。
そんな中で、ヨハネは、ユダヤの指導者たち、そしてその支配を甘んじて受け入れて暮らしている人々に対して、変革のヴィジョンを訴えました。彼の言葉は、希望を失っている人々の心を突き動かしました。貧しい大工として暮らしていたイエスもまた、ヨハネの言葉と行いに大いに共感しました。そんな中で、イエスと出会ったヨハネは、彼こそが、このユダヤを根本的に立て直すメシア、救い主だと期待しました。
その後ヨハネは、ヘロデ王の行動を強く批判し、王の怒りを買って逮捕され、牢獄に入れられてしまいました。いつ処刑されるかも分からないヨハネにとって唯一の希望は、イエスでした。
しかし、そんなヨハネの期待とは異なり、イエスがしていたことは、貧しい村々を回って病人を癒すこと、あるいは罪人と呼ばれていた人たちと一緒に食事をすることでした。そこで、牢獄にいるヨハネは、自分の弟子を通じて、イエスに尋ねるのでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
ヨハネの問いかけに対するイエスの返事は次の通りでした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
ヨハネは、かつての自分が洗礼を授けたイエスが、誰もが認めるメシアとして華々しく活躍することを期待していました。しかしながら、イエスがしていたこととは、病者を癒やし、罪人と呼ばれて生きづらくなっている人々と食卓の交わりをすることでした。そのようなイエスの行動は、地味で、パッとしない、頼りない、小さく見える出来事のように見えたかもしれません。しかしながら、このイエスの働きこそが、神の国、神の愛の支配が始まっているということの証そのものでありました。
私たちは、この世界の現実を見て、あるいは自分の置かれている厳しい境遇の中で、次のように思うかもしれません。なぜ神はこのようなことをされるのか、神だったらもっとこうしてくれるはずではないかと。
私たちはどうしても自分にとって都合がいいこと、理解できること、自分の願望を、神に投影しようとしてしまいます。しかし、神は必ずしも自分が思い描くことをしてくれるとは限りません。洗礼者ヨハネは、自分が思い描く理想をイエスに求めていました。しかし、イエスの答えは、ヨハネが期待するものとは違うものでした。
イエスが示された神の救いとは、人々を自分のところに集めて、誰にでもわかるように、自分が救い主であることを高らかに宣言し、その強い力で人々を支配するようなことではありませんでした。むしろ、この世では目立たない人たち、排除されている人たちのところに自ら出向き、一緒に食卓を囲む交わりをしていくことによって、それを示されました。イエスは十字架の死と復活に至るまで、そのような愛の業を貫き通され、神の支配の到来、神の愛の実現がどのようなものであるかを、私たちに示されたのでした。
まもなくクリスマスです。私たちはクリスマスについて、様々な期待を抱いていると思います。しかし、そんな私たちの期待を圧倒的に超えるような形で、そして意外な形で、喜びの知らせが実現する出来事の始まり、それがクリスマスです。私たちは、そこにこそ希望をもって、ご一緒にクリスマスを待ちたいと思います。(チャプレン 相原太郎)
柳城の晩秋