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【ルカによる福音書 6章27~35節】
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

✝ ✝ ✝

「敵を愛しなさい」という教えは、理想としてはわかるが現実には難しい、と思われるかもしれません。しかし、この教えはとても現実的です。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉がそのヒントになります。
こんなことを人から自分にしてもらいたい、と思ったら、そのことを、まず、自分が人に対してしなさいよ、ということです。イエスが言ったのは、人から何かしてもらったら、そのお返しに人にもしなさい、ということではありませんでした。人にしてもらったら自分もではなく、人からしてもらいたいと思ったらまず自分が人にしなさい、です。この順番が重要です。

例えば、他の人から親切にされたら同じようにする、あるいその親切に対してお礼をするというのは、当然のこと、社会常識、あるいは礼儀として理解されると思います。
しかし、イエスの言葉は、人からしてもらう、ということが前提となっていません。そうではなく、人からしてもらおうが、何もしてもらわなかろうが、それとは関係なく、人にしなさい、ということです。むしろ、ここでは、他人から何もしてもらっていない、ということが、前提となっています。それでもなお人にしなさいということです。相手から何らかの見返りが期待できないとしても、自分がしてほしいと思うようなことを、その相手にしなさい、ということです。自分によくしてくれる人に、よくしようとするということではない、ということです。

「敵を愛しなさい」というときの敵とは、自分によくしてくれる、見返りをくれる人、メリットをもたらす人とは逆で、自分にとって都合が悪い人、デメリットをもたらすかもしれない人です。イエスは、そういう人こそ愛しなさい、大切にしなさい、と言われるわけです。イエスの語る愛とは、自分にとってメリットがあろうがなかろうが、見返りがあろうがなかろうが、そんなこととは関係なく、何の条件もなしに他者を大切にする、というところにポイントがあります。
自分への見返りもなく、なんの条件もなしに、他者を大切にすることなんかできるか、と思われるかもしれません。しかし、例えば保育とは、まさにそのようなものであると思います。子どもたちからの見返り、メリットは期待していないはずです。将来、自分にこんなことをしてくれるからこの子を大事にしようとか、あるいは、こんなことをする子どもだから、大事にするのはやめようなどと条件をつけることは、ないはずです。

イエスは、自分を慕ってくれた弟子たちはもちろんのこと、社会から除け者にされた人々を愛し、そればかりか、イエスを嫌う人々、さらには、彼を十字架によって死に至らせた人たちをも愛されたのでした。そのようにして、神は、私たち人間に、イエスを通して、なんの見返りもなしに、愛されるその愛を示し、そして、私たち人間にもそれができるのだ、ということを表されました。

私たちはそのことに信頼し、この社会の中で、条件なしに人を愛していくことに、この社会において寂しい思い人をしている人を大切にしていくということを、一歩ずつでも実践していけたらと思います。
(チャプレン 相原太郎)


ムラサキゴテン

 

【マルコによる福音書 第10章43節】
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

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【ヨハネによる福音書6章26~35節】
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

✝ ✝ ✝

「私が命のパンである。」イエスが、こう話す前、5000人もの貧しい人々がイエスのところに集まっていました。そこでイエスは、わずかのパンと魚を彼らと分かち合いました。すると、そこにいた全ての人たちのお腹は満たされました。イエスが奇跡を起こしたということで、この時、イエスの人気は頂点に達しました。そして、人々はこのイエスこそ自分たちの支配者にふさわしいと考え、来るべきユダヤの王として祭り上げようとしました。当時、イスラエル地方はローマ帝国によって支配されていましたので、人々は、イエスがローマの圧政から解放してくれる王となるのではと期待しました。
しかし、イエスはそのような王になるつもりはありません。人々の求めに気がついたイエスは山に逃れます。しかしそれでもなお人々はイエスを追いかけ、探し出して見つけます。パンと魚で自分たちを満たしてくれた、あのイエスを自分たちの王にしようと求めて追いかけてきたわけです。

そのような人々に対してイエスが話した内容が、今日の聖書の言葉です。

イエスは、自分を探している人たちに対し、パンを食べて満腹したから自分を探しているのだろうと語ります。パンは確かに生存に必要不可欠なものであり、イエスはもちろんそれ自体を否定しているわけではありません。単にパンなどよりも大事なものがあると言っているわけでもありません。食べるパンが本当に必要であったからこそ、イエスは5000人とパンを分かち合いました。しかし、お腹を満たした民衆たちはイエスが王として君臨することを追い求めます。もっとパンをということです。
そんな民衆たちにイエスは語りかけます。私こそが命のパンなのだと。私自身の命が人々の間で共有されること。それによって、「誰一人、失わないで、終わりの日に復活させること」、それこそが父なる神のみ心なのだと話します。
 イエスは、人々を一人も失わないため、王として支配することは積極的な意味でしませんでした。むしろ、最も低い立場に立ち、貧しい人たちに徹底して寄り添い、彼自身が貧しさの中でその人生を送り、そして、その激しい愛の行為ゆえに十字架にかけられました。イエスは、自分自身の命を文字通り割き、人々に分け与えられたわけです。
イエス自身が分かち合われるパンであるということは、その命を、自分だけの個別的なもの、パーソナルなものとせず、人々と分かち合い、共有し、提供し、投げ出すということです。そのことによって、私たちは一人も失われることなく、誰一人飢え渇く者はなく、永遠の命へと至らせられる、ということです。

イエスは、今日、ここに集められた私たちに対しても、「私こそ命のパンだ、私は自らを差し出す、だからもはや誰一人失うことはない」と語られます。
様々な不安や痛みを抱える私たちですが、イエスが、「誰一人失うことはない」と私たちを力づけ勇気づけ、その命を私たちに分け与えられ、そのようにして私たちは支えられ生かされていることを覚えたいと思います。
そして、イエス自身が、その生涯を、私たちに、とりわけ貧しい人、飢えている人に分け与えられたように、私たちも自らの生活を自分だけのものとして抱え込むのではなく、人々と分かち合っていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


オオスカシバの幼虫

【ヨハネによる福音書第15章5節】
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

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【ヨハネによる福音書 2章1~11節】
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

✝ ✝ ✝

 カナでの婚礼において、お酒が足りなくなったので水を美味しいワインに変えたというのが、ヨハネによる福音書でのイエスの最初の奇跡物語です。イエスによる奇跡と言ったら、例えば、病人を癒すとか、大勢の貧しい人が少量の食べ物を分け合って満腹になるなどがイメージされます。ですので、最初の奇跡であれば、例えば、水を薬に変えて飲ませたら不治の病から回復したというような奇跡が相応しいのではと思ってしまいます。なぜイエスは最初に、宴会で水をワインに変えるというような奇跡を行ったのか、あるいは、どうして福音書を記したヨハネは最初の奇跡の記録としてこの物語を選んだのでしょうか。

ポイントとなるのが水です。イエスがワインに変えた水がめの水は、本来、清めの水として用いるものでした。清めの水とは何かというと、当時の律法にしたがい、外出した後に家に入る前に手を洗う際などに用いるものでした。外出すると不特定多数の人とすれ違います。その中には、律法を守らない人、守れない人がいました。具体的には、外国人などが想定されていました。そういう人たちは律法を守っていないがゆえに、汚れているとされていました。したがって、外出すると、汚れた人とすれ違っているかもしれないから、外から帰ってきたら手をしっかり洗って清めなければならない、ということになっていました。
清めの水とは、このように、あの人は汚れている、私は汚れていない、だから清めの水で汚れを洗い流し、自分を守るのだという形で、人と人とを分離するものでした。イエスがワインに変えた水とは、そのような清めの水であったことが物語の鍵と言えます。
イエスは、当時差別されていた外国人、障害をもつ人、重い病にある人と、積極的に関わりを持ちました。そして、社会に張り巡らされた人と人とを隔てる壁をなくして、共に生きる神の世界をこの地上に実現されようとしていました。
そんなイエスにとって、人と人との関係を分断する清めの水などは無用でありました。そんな清めの水などいらないのだ、人間を汚れた者と清い者とに分けること自体がそもそも間違いなのだ、ということです。

さて、宴の席でワインがなくなったことを知ったイエスは、この清めの水を飲んでしまおうと提案しました。それはすなわち、人々を分断する水を飲んでしまうということによって、そこでの人々の交わりを真に豊かなものにする、ということです。これこそが、水を極上のワインに変えたということの本質的な意味であるように思います。 イエスはこのようにして、すべての人々が隔てなく一緒に生きることを求め、人々の暮らしや生き方を一変されていくのであり、その最初の事件がカナでの出来事でありました。

 

現代の私たちも、様々な分断の中で生きています。日本人と外国人、女性と男性、障害者と健常者など。そのような分断によって差別も生まれます。カナの婚礼において、分断の象徴であった清めの水が一致の象徴であるワインに変えられたように、現代においても、分断を取り除き、共に生きる喜びが分かち合われることが求められています。全ての人が隔てなく共に支え合って生きること、そのようなヴィジョンに支えられて、歩んでまいりたいと思います。


芝生のショウリョウバッタ

【マルコによる福音書 第8章31~33節】
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

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【ヨハネによる福音書 9章1~12節】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

✝ ✝ ✝

 今日の箇所は奇跡物語の一つとされています。奇跡というと、いとも簡単に病気を治したりするようなイメージがあるかもしれません。しかし、今日の箇所のイエスの行動はどうも様子が違います。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」と書かれています。
両目に土を塗るわけですが、目に塗っても土が落ちないようにするためには、粘り気のある土が必要です。そのためには相当な量の唾を土にたらさなければなりません。さらに、その唾と土を手で混ぜて泥にし、そしてようやくできたその泥を、ドロドロになった手で、必死になって、その目の見えない人の目に塗るわけです。このように具体的にイメージしてみますと、この奇跡物語は全然スマートではありません。泥だらけの、不恰好なものでした。

福音書の記者は、イエスの奇跡物語を、もっとスマートに描くこともできたはずです。例えば、「イエスが、その人の目に手をかざして祈ると、たちどころに目が見えるようになった。」このように描けばよかったわけです。それなのに、わざわざ地面に唾を吐いて泥を作ったと記しています。ここには、イエスの人々への関わりが、どのようなものであったかが表現されているように思います。イエスの関わり方とは、効率性や生産性、社会的な評価や成果とは無縁でした。イエスは、出会った人、一人一人と具体的に、必死に、全身全霊をかけて、他人からどう見られようとお構いなしに、関わっていきました。この「唾で泥を作って目に塗った」という様子は、そのことを象徴的に表現しているように感じます。

しかも、それを塗ったからといって、その場ですぐに目が見えるようになったわけではありませんでした。これも私たちがイメージする奇跡とはどうも様子が違います。イエスは、目に泥を塗った上で、今度は、「池に行って洗いなさい」と言いました。イエスが手を引いて連れていき、彼の目を洗ってあげてもよさそうです。しかし、イエスは、彼自身の力で行かせました。すると、彼は目が見えるようになって戻ってきました。
イエスの必死な振る舞いに応答して、今度はその人自身が自らの足で池に行き、自らの手で泥を洗い流したわけです。聖書に出てくる奇跡の実現のプロセスには、この見えない人自身に力が与えられ、エンパワーされることに大事なポイントがあるようです。

彼が池から帰ってくると、近所の人々や、物乞いをしていた姿の彼を知っている人たちが集まってきました。すると、口々に「彼は物乞いをしていた人なのか」「違うだろう」「似ているだけだ」と言いました。すると本人は、「わたしがそうなのです」と彼らに言ったのでした。
これまで、彼は、通りの傍らでひっそりと物乞いをし、見向きもされませんでした。当時の社会では、こうした人々は物乞いをするくらいしか生きる道はありませんでした。そして、街の人たちは、そんな彼の存在には気にも止めず、関わりを持とうともしませんでした。彼自身もまた、このような境遇に陥っているのは、自分の罪の結果だと受け止めてしまっていました。

しかし、イエスによって癒された彼は、堂々と道の真ん中を歩いて帰ってくるのでした。その彼の姿に、人々は混乱しました。彼は一体誰なのだろうかと。
彼は、そんな人々に向けて、「わたしがそうなのです」と言いました。彼のこのセリフは、次のような意味を持ちました。すなわち、「私は、みなさんがこれまで気にもとめず、関わりを持とうとしなかった者、そしてまた、それが罪の結果だと自ら思い込み、自ら社会の片隅でひっそりと暮らしていたあの人物です。あの人物こそ、今、ここに皆さんの前に立っている私なのです。」彼はこのように宣言するのでした。
この時、彼と街の人たちとの関係は大きく変わったのでした。目の見えない人自身が自らの尊厳を回復していくこと、人々との関係が変わっていくこと、それこそがこの奇跡物語のハイライトでありましょう。

このように考えていきますと、こうした物語は、私たちの現代においても、そして、私たちの身の回りにおいても、起きているのではないかと思います。
イエスの時代、社会から取り残され、一人寂しく物乞いをしていたあの彼のように、この現代においても、そうした境遇にある人たちは少なくありません。そしてまた、時に私たち自身も、社会の中で、孤独に追いやられているように思うこともあると思います。
そんなとき、イエスは、必死になって私たちのために泥まみれになって私たちにかかわってくださるのであり、そして、私たちが自分の足で歩けるように促してくださっています。

そのことを覚えながら、私たちも、この世界の中で、差別や偏見、孤独に追いやられている人々、そしてまた、保育の現場で出会う子どもたちに、具体的に愛をもって仕えることによって、そんな奇跡に出会うことを、求めてまいりたいと思います。                (チャプレン 相原太郎)

 


花壇のオーナメント

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

12:弱い側に立つ私たち (マルコ10:43-44)

主よ、あなたの僕、
マーガレット・ヤング宣教師が創った、
伝統ある柳城に、
今日も集うことができた喜び。
主よ、感謝します。
「愛をもって仕えなさい」という、
建学の精神を、
見せかけではなしに、
私たちの日々の目標に、向上心のよりどころに、
働く糧にして下さい。

イエス・キリストは言われます、
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

子どもの前で恥ずかしくない人に、
私たちはなりたいです。
自分から進んで行動できるように、
上の者にも下の者にも、
同じ態度でいられるように、
弱い側にいつも寄り添えるように、
犠牲をいとわないように、
あえて困難にチャレンジできるように、
仕える喜びが実感できるように、
主よ、そのための愛を、
勇気を、
知恵を、
力を、
私たちに与えて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

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この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

11:困難をあえて求める私たち (マタイ7:13)

主よ、
今朝も、柳城の門が、
私たちを迎え入れてくれました。
あなたのお恵みに感謝します。
今日一日が終わって門を出る時、
私たちに変化がありますように。
進歩、
喜び、
満足、
平和、
癒し。
主よ、少しだけでよいのです。
私たちに
向上心を持つチャンスを与えて下さい。

イエス・キリストは言われます、
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」

私たちの成長に、
困難さが必要ならば受け入れます。
毎日が、
同じことの繰り返しにならないように、
楽な方へと流されないように
人間関係に縛られないように
主よ、狭い門を与えて下さい。
そこを通る勇気を与えて下さい。
私たちが成長し続けることで、
柳城が発展し、
愛で満たされて、
子どもたちが幸せになりますように。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

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この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

10:柳城を愛する私たち(ルカ19:46)

主よ、
私たちの大好きな柳城に、
今朝も集えたこと、
感謝します。
マーガレット・ヤング宣教師の
愛によってたてられた
この学び舎に通いながらも、
日々の忙しさのために、
祈りを失いがちな私たちですが、

イエス・キリストは言われます、
「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」

主よ、お願いします。
私たちは祈りますから、
柳城を祈りの家にして下さい。
子どもたちに誇れる場所にして下さい。
祈りを通して
柳城に愛が、
平和が、
進歩が、
信仰が、
希望が与えられますように。
マーガレット・ヤング宣教師の心が、
いつまでも柳城に保たれるよう、
私たちに祈りの機会を与えて下さい。
信仰の灯を絶やさないで下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

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