大学礼拝「敵を愛せ」2021/9/30
【ルカによる福音書 6章27~35節】
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
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「敵を愛しなさい」という教えは、理想としてはわかるが現実には難しい、と思われるかもしれません。しかし、この教えはとても現実的です。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉がそのヒントになります。
こんなことを人から自分にしてもらいたい、と思ったら、そのことを、まず、自分が人に対してしなさいよ、ということです。イエスが言ったのは、人から何かしてもらったら、そのお返しに人にもしなさい、ということではありませんでした。人にしてもらったら自分もではなく、人からしてもらいたいと思ったらまず自分が人にしなさい、です。この順番が重要です。
例えば、他の人から親切にされたら同じようにする、あるいその親切に対してお礼をするというのは、当然のこと、社会常識、あるいは礼儀として理解されると思います。
しかし、イエスの言葉は、人からしてもらう、ということが前提となっていません。そうではなく、人からしてもらおうが、何もしてもらわなかろうが、それとは関係なく、人にしなさい、ということです。むしろ、ここでは、他人から何もしてもらっていない、ということが、前提となっています。それでもなお人にしなさいということです。相手から何らかの見返りが期待できないとしても、自分がしてほしいと思うようなことを、その相手にしなさい、ということです。自分によくしてくれる人に、よくしようとするということではない、ということです。
「敵を愛しなさい」というときの敵とは、自分によくしてくれる、見返りをくれる人、メリットをもたらす人とは逆で、自分にとって都合が悪い人、デメリットをもたらすかもしれない人です。イエスは、そういう人こそ愛しなさい、大切にしなさい、と言われるわけです。イエスの語る愛とは、自分にとってメリットがあろうがなかろうが、見返りがあろうがなかろうが、そんなこととは関係なく、何の条件もなしに他者を大切にする、というところにポイントがあります。
自分への見返りもなく、なんの条件もなしに、他者を大切にすることなんかできるか、と思われるかもしれません。しかし、例えば保育とは、まさにそのようなものであると思います。子どもたちからの見返り、メリットは期待していないはずです。将来、自分にこんなことをしてくれるからこの子を大事にしようとか、あるいは、こんなことをする子どもだから、大事にするのはやめようなどと条件をつけることは、ないはずです。
イエスは、自分を慕ってくれた弟子たちはもちろんのこと、社会から除け者にされた人々を愛し、そればかりか、イエスを嫌う人々、さらには、彼を十字架によって死に至らせた人たちをも愛されたのでした。そのようにして、神は、私たち人間に、イエスを通して、なんの見返りもなしに、愛されるその愛を示し、そして、私たち人間にもそれができるのだ、ということを表されました。
私たちはそのことに信頼し、この社会の中で、条件なしに人を愛していくことに、この社会において寂しい思い人をしている人を大切にしていくということを、一歩ずつでも実践していけたらと思います。
(チャプレン 相原太郎)